19世紀中期、幕府は開国へと方針を変え、欧米5ヶ国に開放された長崎港には外国人居留地が形成され、居留地内に大浦天主堂が建設されました。完成まもない1865年3月、長崎市内の浦上地区にいた潜伏キリシタンたちがこの聖堂を訪れました。彼らは、聖堂にいるフランス人は自分たちが長く待ち望んだ宣教師であるのかを確かめるために、命がけでやって来たのです。「ここにいる私ども全員の心は、あなた様と同じでございます。」潜伏キリシタンたちがプティジャン神父に信仰を告白したこのできごとは「信徒発見」と呼ばれました。弾圧のなか250年も潜伏しながらキリストの教えを継承してきた日本人がいることは、驚きと感動をもって当時のヨーロッパに伝えられました。
信仰の自由を求める国際社会の非難が高まる中で、1873年、明治政府はついに禁教の高札を撤去しました。キリシタンたちは、250年に及んだ潜伏を経て、初めて信仰を公にすることができるようになりました。
各地の信徒たちは、信仰継承の証として、潜伏してきたそれぞれの集落に教会堂を建設しました。信徒たちが苦しい生活の中でも生活費を切り詰めたり、外国人宣教師たちが私財を投じたりすること等で資金が工面され、建設作業や運搬作業には多くの信徒が労働奉仕として携わりました。
山間部や島々の入り江に今もひっそりと立つ教会堂の数々は、潜伏キリシタンの時代からそれぞれの集落で信仰が守られ、継承されてきたことを静かに物語っています。
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