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(3)弾圧と潜伏

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豊臣秀吉は、1587年に「バテレン追放令」を発し、宣教師たちの追放を命じました。1597年には、26人の宣教師・信徒らが、長崎の西坂の丘で、はりつけに処せられました。
 秀吉に始まった禁教政策は徳川幕府によって強化され、1614年には禁教令が全国に発布されました。 1622年には、国外追放に従わず潜伏していた宣教師と、彼らをかくまったとされた信徒ら計56人が西坂の丘で処刑された「元和の大殉教」が起きました。

 飢饉や重税に苦しんでいた有馬や天草の領民たちは、1637年から翌年にかけて武装蜂起し「島原・天草一揆」が勃発しました。約3万7千人の領民たちは、原城に立て籠もりましたが、88日間の戦いの末、女性や子どもまでもが皆殺しになりました。その後、原城は徹底的に破壊されましたが、発掘調査では無数の人骨とともに十字架やメダイが出土しています。孤立無援の中での籠城を可能にしたのは、16世紀中期以来のキリスト教信仰に基づく、共同体の結束が背景にあったと考えられます。

 島原・天草一揆の後、天草も長崎奉行所の支配を受けることとなりました。絵踏みなど厳しくキリシタンを取り締まる仕組みが整えられるなか、﨑津の人々は、表向きは仏教徒を装いながら、潜伏キリシタンとして信仰を継続しました。1805年の「天草崩れ」とよばれる取締りの記録では、﨑津村民の約70%が潜伏キリシタンであったと報告されています。

 

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