御領組大庄屋の長岡興就により天保11(1840)年に奉納された鳥居です。長岡家は肥後藩主の細川家の生まれで、開祖の長岡興秋は細川忠興公とガラシャ夫人(明智光秀の娘)の間に生まれた子とされており、興就は11代目の大庄屋の役を引き継ぎました。
その後、興就は農民の願いである「天草百姓相続方仕法」再発布のため、弘化2(1845)年当時は御法度であった「越訴」を行い、入牢の罰を受けました。翌年悲願であった「百姓相続方仕法」は発布されましたが、その内容と興就の入牢に対する不満により、その後の「弘化の大一揆」に繋がっていきます。興就は一揆の件でも入牢の罰を受け、その後は佐伊津村中村家に預けられ明治2年に没しました。
興就の墓は近くの芳證寺に残っており、鳥居の柱には「願成就、長岡五郎三郎源興就」と刻まれています。
■指定区分:市指定
■指定種別:建造物
■指定日:平成3年2月15日
■地域:五和
■所在地:五和町御領字沖ノ畑 御領神社内